西日の差し込む化学実験室は本を読むのに適した環境だと思う
人気の無い部屋は十月末日だというのにとても暖かい
窓と扉を閉め切っているため,温められた空気が何処にも逃げないからだ
ワイシャツにセーターだけで十分暖が取れるので,いつも着用している白衣は傍らに置いてある
広々とした空間にページを手繰る音だけが一定の間隔で響き渡る
しかし,そんな静寂も小さな囁き声でいとも簡単に破られた
"Suesses oder Saures!"
驚いて顔を上げると,傍らに桃李が立っていた
何を言われたのかさっぱり分からなかったけれど,彼女の格好と今日と言う日からある程度予測がついた
頭にあるのは何時もの帽子ではなく,色白い肌と銀髪のショートヘアに映える黒いネコミミ
『エプロン着ければメイド服』の定評ある学園の制服の腰の辺りにはご丁寧にネコミミと同色の長い尻尾もついている
そして今日は10月31日
と言うことは,
「"Trick or Treat!"ってことか?」
「流石,ともくん」
如何やら合っていたらしい
桃李は小さな掌でパチパチと拍手をしてくれた
「お菓子とイタズラどちらが良い?」
「生憎,今は菓子の持ち合わせが無いんだ」
肩をすくめて残念そうなそぶりを見せる
寧ろ俺は桃李のする『イタズラ』にとても興味があるので,菓子を持っていても『無い』と答えただろう
勿論,そんなことはおくびにも出さない
俺の返答を聞いた桃李は,小首をかしげて俺の瞳を覗き込んだ
小学生並みに小さい身体の彼女と座った状態の俺の視線が難なく合う
澄んだ碧色の瞳は不思議な光を湛えていた
「じゃあ『イタズラ』が良い?」
「ああ,煮るなり焼くなり桃李の好きにして良いぞ」
満面の笑みでそう返すと,彼女は困ったように眉をひそめた
「・・・・・・私,そんな酷いことしない」
どうやらそのままの意味でとってくれたようだ
本当にそんなことされたらこっちだって困る
「言葉の綾だよ」
「アヤ?」
「洒落みたいなもんさ」
「そうなの?」
「そ」
分かった,と言う様に首を縦に振る彼女を抱き上げ,膝の上に座らせる
鍛えているため多少筋肉はついているけれど,相変わらず彼女の身体は軽かった
「『イタズラ』って,ともくんが困ることすればいいの?」
「まぁ,基本的にそうだろ」
「じゃあ,こうする」
突然,羽織っていたセーターの中に桃李がもぐりこんで来る
「セーターのびのびする」
そう言うや否や胸元に頬を摺り寄せてきた
多少ワイシャツのボタンを留め損ねていたので,時々彼女の肌が俺の肌に触れる
思ったよりも冷たい桃李の身体
外はそのくらい寒いのだろうか?
どうでも良いことで意識を紛らわせようとする俺の努力空しく,彼女がお構い無しに展開する我流『イタズラ』により再度現実に引き戻される
さてこれからどうしようか?
考えあぐねていると,セーターの中から声が聞こえた
「ともくん,困った?」
色んな意味でこれは困る
「ああ,困った」
「もっと,困らせる」
そして,セーターの襟元から彼女の頭が現れた
間近で見るネコミミは案外精巧な作りをしていた
仕事も丁寧で,ほつれは全然見当たらない
手作りの様だが,桃李はそんなに裁縫が得意では無いはずだ
多分,他の人が作ったものだろう
左腕で彼女が膝から落ちないように華奢な腰を抱える
少しだけぼさぼさになってしまった桃李の髪を空いている右手でそっと梳くと,彼女は気持ち良さそうに瞼を閉じた
じっと為すがままにされているその様子は,まるで本物の猫のようだ
長いまつげが時折微かに震えるのがとても愛らしい
それからどのくらい立ったのか
心なしか,彼女に触れている部分が熱を帯びてきた
何時もより密着していて熱が篭っているからだろうか?
それとも・・・・・・
桃李の顔が,大分近い
「少し苦しいね」
そういう彼女の頬は仄かに赤い
確かにこの格好は息苦しい
「セーターが一人用だからな」
「もう着られない?」
悲しそうな顔をする彼女の頭を優しく撫でる
「着られなくなったら,また二人で着ればいいさ」
「うん」
嬉しそうにはにかむ彼女を見ているとこちらまで嬉しくなってしまう
そして,
今度少し大きめのセーターを買おう,と密かに心に誓った